平地に比べるとまだまだ肌寒い日の多い我が家ではありますが、3月も中旬を過ぎて徐々に華やかになってきました。
種から育てたスミレの花は日毎に花の数が増えてきましたし、楽しみにしていたムスカリも花盛り。
玄関脇に植えたアジュガも、ポツポツと紫色の可愛らしい花が咲き始めています。
そして土手の桜の木も満開を迎え、うら寂しかった冬景色から一転、我が家の庭は今まさに春爛漫です。

(左)朝日に輝く満開の桜。
(右)桜と椿の競演。椿って真冬に咲くものだと思っていたけれど、品種の違いで9月から5月まで長く楽しめる花なのだそう。

(左)ブラジル原産のムスカリ。平松洋子さんがクロワッサン誌上でムスカリを紹介されていたのを拝見して以来、
いつか育ててみたいと思っていた球根作物。小さな鈴状の花が、これまた鈴なりに咲く様子は実に可愛らしい。
(右)半日陰の場所でも旺盛に育ち、シェードガーデンを彩る花として近年人気のアジュガ。
午前中の数時間だけ日の射す玄関脇の花壇と裏庭に苗を定植した。姿形の似たホトケノザとは同じシソ科。
こうして見ると、私は暖色系より寒色系の花が好きみたいだ。

(左)樹勢が衰えて、来年はもう無理かなと諦めていた山椒の木にも新芽が出てきて嬉しい限り。
今年から筍ご飯の時に山椒がない!なんてことがなくなる。
(右)サカタのよく咲くスミレシリーズは名前に偽りなし。2月まではボチボチだったけれど、3月中旬から次々に花を咲かせている。
初挑戦の去年は種まきが遅れた。今年は8月に種をまいて秋から初夏まで長く花を楽しみたい。
種から育てたスミレの花は日毎に花の数が増えてきましたし、楽しみにしていたムスカリも花盛り。
玄関脇に植えたアジュガも、ポツポツと紫色の可愛らしい花が咲き始めています。
そして土手の桜の木も満開を迎え、うら寂しかった冬景色から一転、我が家の庭は今まさに春爛漫です。


(左)朝日に輝く満開の桜。
(右)桜と椿の競演。椿って真冬に咲くものだと思っていたけれど、品種の違いで9月から5月まで長く楽しめる花なのだそう。


(左)ブラジル原産のムスカリ。平松洋子さんがクロワッサン誌上でムスカリを紹介されていたのを拝見して以来、
いつか育ててみたいと思っていた球根作物。小さな鈴状の花が、これまた鈴なりに咲く様子は実に可愛らしい。
(右)半日陰の場所でも旺盛に育ち、シェードガーデンを彩る花として近年人気のアジュガ。
午前中の数時間だけ日の射す玄関脇の花壇と裏庭に苗を定植した。姿形の似たホトケノザとは同じシソ科。
こうして見ると、私は暖色系より寒色系の花が好きみたいだ。


(左)樹勢が衰えて、来年はもう無理かなと諦めていた山椒の木にも新芽が出てきて嬉しい限り。
今年から筍ご飯の時に山椒がない!なんてことがなくなる。
(右)サカタのよく咲くスミレシリーズは名前に偽りなし。2月まではボチボチだったけれど、3月中旬から次々に花を咲かせている。
初挑戦の去年は種まきが遅れた。今年は8月に種をまいて秋から初夏まで長く花を楽しみたい。
喪主側として通夜と告別式を滞りなく執り行う緊張感とは別のプレッシャーが私にはあった。
なにせ、父方母方の親戚と顔を合わせるのが30年ぶりだったのである。
親兄弟とはかろうじて細々とつながっていたものの、親戚の間ではすっかり「あの人は今」状態だった。
冠婚葬祭も悉く欠席するという不義理を重ね、今さらどの面下げて会えようかと内心ビクビクだった。
第一の関門は弔問に来てくれた母方の伯父夫婦。そばに控える私の顔を見ても「どちらさんかしら?」といった様子で
気付いていない模様。
母が口火を切り、
「シズ子さん、ヒロミよ」と言うと、ようやく 「え?あら!ヒロミちゃん!?気付かんかった」
「ご無沙汰しています。不義理ばかりしてすみません・・・」とひたすら恐縮する私に対して
元々超社交的な伯母はすぐに昔と変わらず打ち解けてくれたのである。
それからの通夜、告別式では従兄弟、叔父叔母らとの数十年ぶりの再会が続いた。
「ヒロミ姉ちゃん?」と声を掛けてくれたカズ坊、父方の従兄弟の兄ちゃん達と昔話に花が咲き、
心温まる交流のひとときをもつことができた。
私の不義理を水に流し、変わらない温情をかけて下さったことに感謝の気持ちでいっぱいである。
そしてまた、私の心の棘でもあった姉との仲が元通りとは言わないまでも修復できたことが嬉しかった。
これら全て父が取り持ってくれた縁、父よりの最後の贈り物だという気がしている。
心に残る通夜と告別式だったと思う。
父を慕い、その死を心から悼み涙を流す子、孫、ひ孫たち。
私の父は、複雑な生い立ちのせいか屈折した性格の持ち主で周りから誤解されやすい人だった。
けれども孫が生まれてからの父は、枷が外れたかのように生来の優しさを発揮し、その温かさで回りを包み込んだ。
亡くなった時に本当の人柄がわかると言われるが、父が亡くなった今、私は改めてその言葉をかみしめている。
なにせ、父方母方の親戚と顔を合わせるのが30年ぶりだったのである。
親兄弟とはかろうじて細々とつながっていたものの、親戚の間ではすっかり「あの人は今」状態だった。
冠婚葬祭も悉く欠席するという不義理を重ね、今さらどの面下げて会えようかと内心ビクビクだった。
第一の関門は弔問に来てくれた母方の伯父夫婦。そばに控える私の顔を見ても「どちらさんかしら?」といった様子で
気付いていない模様。
母が口火を切り、
「シズ子さん、ヒロミよ」と言うと、ようやく 「え?あら!ヒロミちゃん!?気付かんかった」
「ご無沙汰しています。不義理ばかりしてすみません・・・」とひたすら恐縮する私に対して
元々超社交的な伯母はすぐに昔と変わらず打ち解けてくれたのである。
それからの通夜、告別式では従兄弟、叔父叔母らとの数十年ぶりの再会が続いた。
「ヒロミ姉ちゃん?」と声を掛けてくれたカズ坊、父方の従兄弟の兄ちゃん達と昔話に花が咲き、
心温まる交流のひとときをもつことができた。
私の不義理を水に流し、変わらない温情をかけて下さったことに感謝の気持ちでいっぱいである。
そしてまた、私の心の棘でもあった姉との仲が元通りとは言わないまでも修復できたことが嬉しかった。
これら全て父が取り持ってくれた縁、父よりの最後の贈り物だという気がしている。
心に残る通夜と告別式だったと思う。
父を慕い、その死を心から悼み涙を流す子、孫、ひ孫たち。
私の父は、複雑な生い立ちのせいか屈折した性格の持ち主で周りから誤解されやすい人だった。
けれども孫が生まれてからの父は、枷が外れたかのように生来の優しさを発揮し、その温かさで回りを包み込んだ。
亡くなった時に本当の人柄がわかると言われるが、父が亡くなった今、私は改めてその言葉をかみしめている。
2023.03.21 12:02|日々のこと|
夜の二時過ぎにけたたましい電話の音で目が覚めた。
寝ぼけまなこでスマホを見ると妹からである。こんな時間に電話をかけてくるなんて・・・。
覚悟を決めて応答すると、やはりと言うべきか父が亡くなったという知らせであった。享年82歳。
数年前から病院と施設を行ったり来たりしていた父ではあったが、命に関わる病気もなく、
寝たきり状態だった一時期に比べると随分元気になったと聞いていた。頭もしっかりしていて、
本人は90歳まで生きると意気軒昂だったらしいから、しばらくは安心かなと思っていたくらいである。
それがいきなり死んだと言われても頭がついてこない。
取るものも取りあえず新幹線で長崎へ向かう。
2年ぶりの帰省。長崎駅前はすっかり様変わりし、見知らぬ街のように見えた。
迎えに来た妹の車に乗り込み、車窓から流れていく長崎の街をボーッと眺める。
狭い道路を車と路面電車が行き交う、ガチャガチャした風景は自分が住んでいた20年前と変わらない。
そうだった、この逃げ場のない閉塞感に耐えられなくなった私は、長崎を出ようと決めたのだ。
故里を恋しく思う気持ちはあるけれど、やはりここにはもう住めないなと思う。
実家で対面した父は眠っているようにしか見えなかった。
高い頬骨に手を触れ、その冷たさに父が死んだことがジワジワと胸に迫ってきた。
最後まで豊かだった父の白髪を撫でる。私の涙につられた妹の嗚咽が傍らから聞こえてきた。
初孫で、父が目の中に入れても痛くないほど可愛がった姪のゆき、甥の駿も赤く目を腫らしている。
娘達にはひたすら厳しい父であったが、孫とひ孫には無限の愛情と優しさを降り注いだ好好爺だった。
死因は偶発的な事故が原因と思われる。発見が遅れ、施設の職員が気付いた時にはすでに心肺停止状態だった。
その後の連絡も後手に回り、妹達が病院に駆けつけた時には蘇生は絶望的な状況だったという。
連絡の遅れや施設側の説明が要領を得なかったことで少なからぬ不信感が残ったが、
今さら騒いだところで父は戻ってこない。こういう事は表に出ないだけでよくあることなのかもしれない。
ただ、最後の時に父が一人で苦しんで逝ってしまったのではないかという悔いはこの先もずっと残るだろう。
喪主である母は悲しんでいる暇もなく、弔問客の対応と通夜と葬儀の打ち合わせに追われていた。
と言っても、80歳で衰えが見える母のため、万が一にも抜かりのないよう3人の娘達がつきっきりで補佐に回ったのであるが。
寝ぼけまなこでスマホを見ると妹からである。こんな時間に電話をかけてくるなんて・・・。
覚悟を決めて応答すると、やはりと言うべきか父が亡くなったという知らせであった。享年82歳。
数年前から病院と施設を行ったり来たりしていた父ではあったが、命に関わる病気もなく、
寝たきり状態だった一時期に比べると随分元気になったと聞いていた。頭もしっかりしていて、
本人は90歳まで生きると意気軒昂だったらしいから、しばらくは安心かなと思っていたくらいである。
それがいきなり死んだと言われても頭がついてこない。
取るものも取りあえず新幹線で長崎へ向かう。
2年ぶりの帰省。長崎駅前はすっかり様変わりし、見知らぬ街のように見えた。
迎えに来た妹の車に乗り込み、車窓から流れていく長崎の街をボーッと眺める。
狭い道路を車と路面電車が行き交う、ガチャガチャした風景は自分が住んでいた20年前と変わらない。
そうだった、この逃げ場のない閉塞感に耐えられなくなった私は、長崎を出ようと決めたのだ。
故里を恋しく思う気持ちはあるけれど、やはりここにはもう住めないなと思う。
実家で対面した父は眠っているようにしか見えなかった。
高い頬骨に手を触れ、その冷たさに父が死んだことがジワジワと胸に迫ってきた。
最後まで豊かだった父の白髪を撫でる。私の涙につられた妹の嗚咽が傍らから聞こえてきた。
初孫で、父が目の中に入れても痛くないほど可愛がった姪のゆき、甥の駿も赤く目を腫らしている。
娘達にはひたすら厳しい父であったが、孫とひ孫には無限の愛情と優しさを降り注いだ好好爺だった。
死因は偶発的な事故が原因と思われる。発見が遅れ、施設の職員が気付いた時にはすでに心肺停止状態だった。
その後の連絡も後手に回り、妹達が病院に駆けつけた時には蘇生は絶望的な状況だったという。
連絡の遅れや施設側の説明が要領を得なかったことで少なからぬ不信感が残ったが、
今さら騒いだところで父は戻ってこない。こういう事は表に出ないだけでよくあることなのかもしれない。
ただ、最後の時に父が一人で苦しんで逝ってしまったのではないかという悔いはこの先もずっと残るだろう。
喪主である母は悲しんでいる暇もなく、弔問客の対応と通夜と葬儀の打ち合わせに追われていた。
と言っても、80歳で衰えが見える母のため、万が一にも抜かりのないよう3人の娘達がつきっきりで補佐に回ったのであるが。
今年の冬は寒さがひときわ身に染みた。
重い花粉症持ちの私にとって、春はうれしたのしだけの季節ではない。
その私が心から春を待ち遠しく思うほどに、この地で迎える初めての冬は過酷だったのである。
体感的には、去年まで住んでいた海近くの家よりも5℃は気温が低かったように感じる。
今年は寒冬でもあったけれど、この家の立地的にどうしたって寒くならざるを得ないのであろう。
冬至以降、裏にそびえる深い山が太陽の光を遮り、日中はほとんど家に日が当たらず、
家の中より外のほうがよほど暖かいという日が続いた。日が落ちると今度は冷気が山を這い下りてきて
ただでさえ冷え切った家を覆うのである。まるで冷蔵庫の中に住んでいるような、そんな感じであった。
花粉症の飛散量が桁違いでたまらん春ではあるけれど、それをさっ引いても嬉しさの方が何倍も勝る。
北国の人の春を待ちわびる気持ちが少しだけわかった気がする、2022年の冬であった。

(左)種から育てたスミレ。淡い黄色はレモネード、青紫はブルーフィズ。意図せずしてウクライナ国旗の色になった。
(右)黄水仙。

(左)裏山の大きな椿の木。(右)春本番を待たずに旅立ったタマの仏壇に椿を供えた。

最後の夜、タマに添い寝するタロ。一時の昏睡状態から呼び掛けに応えるまで持ち直し、最後の力を振り絞って
喉を鳴らしてくれたチャマ姉たん。時折苦しげに声をあげるタマに寄り添うタロは、何を感じていたのだろう。
裏の桜の木の下にあるタマのお墓。ある日の朝、タマのお墓にスポットライトのようにまばゆい光が当たっている。
これはもしや、タマからの言伝?と2階の夫を呼んだら、部屋の窓に貼った遮光シートが朝日に反射したらしい。
なんだぁ、てっきりタマが私に何かを伝えようとしているのかと思ってしまった。
タマ、寂しいよ。
重い花粉症持ちの私にとって、春はうれしたのしだけの季節ではない。
その私が心から春を待ち遠しく思うほどに、この地で迎える初めての冬は過酷だったのである。
体感的には、去年まで住んでいた海近くの家よりも5℃は気温が低かったように感じる。
今年は寒冬でもあったけれど、この家の立地的にどうしたって寒くならざるを得ないのであろう。
冬至以降、裏にそびえる深い山が太陽の光を遮り、日中はほとんど家に日が当たらず、
家の中より外のほうがよほど暖かいという日が続いた。日が落ちると今度は冷気が山を這い下りてきて
ただでさえ冷え切った家を覆うのである。まるで冷蔵庫の中に住んでいるような、そんな感じであった。
花粉症の飛散量が桁違いでたまらん春ではあるけれど、それをさっ引いても嬉しさの方が何倍も勝る。
北国の人の春を待ちわびる気持ちが少しだけわかった気がする、2022年の冬であった。


(左)種から育てたスミレ。淡い黄色はレモネード、青紫はブルーフィズ。意図せずしてウクライナ国旗の色になった。
(右)黄水仙。


(左)裏山の大きな椿の木。(右)春本番を待たずに旅立ったタマの仏壇に椿を供えた。



最後の夜、タマに添い寝するタロ。一時の昏睡状態から呼び掛けに応えるまで持ち直し、最後の力を振り絞って
喉を鳴らしてくれたチャマ姉たん。時折苦しげに声をあげるタマに寄り添うタロは、何を感じていたのだろう。
裏の桜の木の下にあるタマのお墓。ある日の朝、タマのお墓にスポットライトのようにまばゆい光が当たっている。
これはもしや、タマからの言伝?と2階の夫を呼んだら、部屋の窓に貼った遮光シートが朝日に反射したらしい。
なんだぁ、てっきりタマが私に何かを伝えようとしているのかと思ってしまった。
タマ、寂しいよ。
愛猫のタマが昨日天国に旅立ちました。
享年14歳。15歳の誕生日まであとひと月でした。
嘔吐症状が出始めたのが1月下旬。それから日を追う毎に食欲が落ち、
大好きなパウチも数口舐めるだけで、近頃は水以外ほとんど摂れなくなっていました。
足元が覚束なくなると同時に粗相の回数が増えたため、やむを得ずおむつを着けることにしましたが、
人に触られるのが苦手なタマが抵抗する力もなくなっていく姿を見るのは本当に辛かったです。
それでも、私が床に入るとそれまでと同じように枕元に来てくれました。
私の顔のそばで香箱座りをするタマの頭をなで、手をタマのあごに添えながら語りかけていると
私の足元で丸くなっていたタロも”なに?なに?僕も混ぜて~”という様子で割り込んで来るのです。
三人で川の字になって横たわり、ウトウトしているうちにタマはこたつのねぐらへ帰っていきます。
最後の二週間はこれまでになく濃く、幸せな時間でした。
私は、自分が猫達の命を救っているつもりでいました。
でもそれは思い違いで、私が彼らから救われていたことに改めて気付きました。
猫達が私に与えてくれる愛情、安らぎ、喜び。それに値するものを自分は猫達に与えられているか。
この問いに対する答えは今はまだ出せそうにありません。
タマもタロも、たぶん宇宙で一番私のことが好きです。
私のことをそれほど愛してくれる存在は他にいません。

タマ、今までありがとう。
3歳で生き別れた兄のネギや、同居人のナスと虹の橋で再会を喜んでいる頃かな。
姉ちゃんも後から行くけん、みんなで待っとってね。
享年14歳。15歳の誕生日まであとひと月でした。
嘔吐症状が出始めたのが1月下旬。それから日を追う毎に食欲が落ち、
大好きなパウチも数口舐めるだけで、近頃は水以外ほとんど摂れなくなっていました。
足元が覚束なくなると同時に粗相の回数が増えたため、やむを得ずおむつを着けることにしましたが、
人に触られるのが苦手なタマが抵抗する力もなくなっていく姿を見るのは本当に辛かったです。
それでも、私が床に入るとそれまでと同じように枕元に来てくれました。
私の顔のそばで香箱座りをするタマの頭をなで、手をタマのあごに添えながら語りかけていると
私の足元で丸くなっていたタロも”なに?なに?僕も混ぜて~”という様子で割り込んで来るのです。
三人で川の字になって横たわり、ウトウトしているうちにタマはこたつのねぐらへ帰っていきます。
最後の二週間はこれまでになく濃く、幸せな時間でした。
私は、自分が猫達の命を救っているつもりでいました。
でもそれは思い違いで、私が彼らから救われていたことに改めて気付きました。
猫達が私に与えてくれる愛情、安らぎ、喜び。それに値するものを自分は猫達に与えられているか。
この問いに対する答えは今はまだ出せそうにありません。
タマもタロも、たぶん宇宙で一番私のことが好きです。
私のことをそれほど愛してくれる存在は他にいません。

タマ、今までありがとう。
3歳で生き別れた兄のネギや、同居人のナスと虹の橋で再会を喜んでいる頃かな。
姉ちゃんも後から行くけん、みんなで待っとってね。