器用貧乏
2019.10.28 20:54|日々のこと|
器用貧乏ときいて真っ先に連想するのは母方の祖父である。
昭和18年生まれの母は、戦後しばらくの間平戸の根獅子という海辺の集落で疎開生活を送り、
この疎開先での思い出話を、私達は耳にタコができるくらい聞かされた。
7人兄弟の長女であった母は、幼い弟妹の面倒を見ながら極貧生活を送っていたという。
遠足の時、周りの子らがみな白飯を持参している傍らで茶色い麦飯を隠すようにして食べたこと。
よその家の庭から落ちた柿を拾い集め、懐に忍ばせて一目散に走って逃げたこと。手先の器用な祖父が
傘やわらじを作って売り、祖母は自分の着物を農家で食べ物と交換してもらったりと、生きるために必死だったこと。
そして、根獅子の浜は長崎のどの海よりもきれいだった、またいつか行きたい、と懐かしむように語るのだった
『じいちゃんは手先のすごく器用やったけど、何でかお金に縁のなかった。
ああいう人ば器用貧乏って言うとやろうね・・・』
祖父は私が小学6年の時に心臓病で71歳の生涯を閉じた。もちろん悲しかったけれども、会うのも年に数回程度で、
頑固親父然とした風貌の祖父との間に楽しい思い出はほとんどない。思い出すことと言えば、泊まりに行った時
目にする祖父の白ふんどし姿と、盆正月の親戚の集まりで、毎回のように父に小言を言う厳しい祖父の姿だ。
祖父が父に厳しかった理由は、たぶん母が自分の身内に父の愚痴をこぼしていたせいだろうと思う。
母の実家での父はいつも所在なげで、子供心にも気の毒な気がしていた。
それはさておき。
器用貧乏と言えば私の父の事も忘れてはならない。
結婚後数年間、奈良で工務店を営む次兄の下で大工修行を積んだ父の工具箱には、プロ仕様の色んな道具が
揃えられていた。それらを駆使し、はいらず(蝿帳)等の家具類から精巧な船の模型、木版画で作る毎年の年賀状、
使い勝手の良い魚干し網まで、暇さえあれば色んなものを作っていた。
とりわけ私にとって思い出深いものが、船形の筆箱と絵の具入れである。
私が小学校に上がるとき、絵の具道具箱を父と一緒に文房具屋に見に行った。私は、
みんなが持っている赤いビニール製の絵の具入れをねだったが父は買ってくれなかった。
『もっと良かもんば父ちゃんが作ってやる』と言って、父はキコキコと大工仕事を始めた。
そうして出来上がった軽くて頑丈でカラフルな木製の絵の具箱には”HIROMI”のペイントが施され、動物の絵まで
描かれた父渾身の一作だった。私は父の思いの詰まったその絵の具箱を、自分だけまわりと違うという理由で
恥ずかしいと感じ、粗末に扱った。父手作りの絵の具箱の価値を理解するには私は幼なすぎたのだ。
これは私が生涯で最も後悔する事の一つである。
記憶にある祖父の顔と、年をとった父の顔が私の中で重なる時がある。頬骨の高い顔立ち、寡黙で偏屈で、
手先は器用だけれど世渡りが下手で。母は知ってか知らずか、自分の父親によく似た男を選んだのだ。
おっかさんももしかしてファザコンだったのかなぁ、と思う今日この頃である。
昭和18年生まれの母は、戦後しばらくの間平戸の根獅子という海辺の集落で疎開生活を送り、
この疎開先での思い出話を、私達は耳にタコができるくらい聞かされた。
7人兄弟の長女であった母は、幼い弟妹の面倒を見ながら極貧生活を送っていたという。
遠足の時、周りの子らがみな白飯を持参している傍らで茶色い麦飯を隠すようにして食べたこと。
よその家の庭から落ちた柿を拾い集め、懐に忍ばせて一目散に走って逃げたこと。手先の器用な祖父が
傘やわらじを作って売り、祖母は自分の着物を農家で食べ物と交換してもらったりと、生きるために必死だったこと。
そして、根獅子の浜は長崎のどの海よりもきれいだった、またいつか行きたい、と懐かしむように語るのだった
『じいちゃんは手先のすごく器用やったけど、何でかお金に縁のなかった。
ああいう人ば器用貧乏って言うとやろうね・・・』
祖父は私が小学6年の時に心臓病で71歳の生涯を閉じた。もちろん悲しかったけれども、会うのも年に数回程度で、
頑固親父然とした風貌の祖父との間に楽しい思い出はほとんどない。思い出すことと言えば、泊まりに行った時
目にする祖父の白ふんどし姿と、盆正月の親戚の集まりで、毎回のように父に小言を言う厳しい祖父の姿だ。
祖父が父に厳しかった理由は、たぶん母が自分の身内に父の愚痴をこぼしていたせいだろうと思う。
母の実家での父はいつも所在なげで、子供心にも気の毒な気がしていた。
それはさておき。
器用貧乏と言えば私の父の事も忘れてはならない。
結婚後数年間、奈良で工務店を営む次兄の下で大工修行を積んだ父の工具箱には、プロ仕様の色んな道具が
揃えられていた。それらを駆使し、はいらず(蝿帳)等の家具類から精巧な船の模型、木版画で作る毎年の年賀状、
使い勝手の良い魚干し網まで、暇さえあれば色んなものを作っていた。
とりわけ私にとって思い出深いものが、船形の筆箱と絵の具入れである。
私が小学校に上がるとき、絵の具道具箱を父と一緒に文房具屋に見に行った。私は、
みんなが持っている赤いビニール製の絵の具入れをねだったが父は買ってくれなかった。
『もっと良かもんば父ちゃんが作ってやる』と言って、父はキコキコと大工仕事を始めた。
そうして出来上がった軽くて頑丈でカラフルな木製の絵の具箱には”HIROMI”のペイントが施され、動物の絵まで
描かれた父渾身の一作だった。私は父の思いの詰まったその絵の具箱を、自分だけまわりと違うという理由で
恥ずかしいと感じ、粗末に扱った。父手作りの絵の具箱の価値を理解するには私は幼なすぎたのだ。
これは私が生涯で最も後悔する事の一つである。
記憶にある祖父の顔と、年をとった父の顔が私の中で重なる時がある。頬骨の高い顔立ち、寡黙で偏屈で、
手先は器用だけれど世渡りが下手で。母は知ってか知らずか、自分の父親によく似た男を選んだのだ。
おっかさんももしかしてファザコンだったのかなぁ、と思う今日この頃である。