高野和明『ジェノサイド』
2020.05.16 22:47|好きなこと|
ここ数年間に読んだ本の中でダントツに面白かった。
特に、謎が謎を呼び、危機また危機の連続で息もつかせぬ展開の下巻は、読むのを止められず、
結局夜中の一時半までかかってほぼ1日で読破してしまった。おかげで今日はひどい寝不足である。
これほど物語に入り込んで、眠るのを忘れるほど夢中になって読んだのは久しぶりだ。
過去を振り返っても、大沢在昌『新宿鮫~毒猿』、桐野夏生『Out』、コーンウェルの『検視官』シリーズくらいである。
日本、アメリカ、アフリカ大陸。それぞれに異なる主人公が登場し、目まぐるしい場面展開で物語は同時進行する。
彼らは、”人智を超えた存在”が描いた筋書に沿って、人類の存亡に関わる遠大な問題に巻き込まれてゆく。
人間の善性、そして時に目を背けたくなる醜さを晒しながら、己の使命を果たすべく、最終目標に向かって
突き進んでいく。それは数多の犠牲を伴うあまりにも過酷な道のりであった・・・。
ミステリーを軸に、アクションあり、科学ありと実に盛りだくさんであるが、その全てにおいて実に緻密に描写されている。
『13階段』でも、刑務所内部の様子や検察制度、死刑にまつわるあれこれを、臨場感溢れる筆致で詳細に
書き切っていた高野和彦氏。今作でも相当な考証を重ねたのがうかがえる内容だったけれど、巻末の膨大な
参考文献の数に、この作家のリアリティへの飽くなき執念を見た。
ホモ・サピエンスとは”賢い人間”という意味だそうだ。
しかし、誕生から42万年経ってなお、いまだに同じ生物種同士の争いが絶えない自称”賢い人間”である私達。
若き天才ルーベンスと老練の碩学、ハイズマンとの問答に、作家の思いが集約されているのではないだろうか。
・・・
人間は、自分も異人種も同じ生物種であると認識することができない。肌の色や国籍、宗教、場合によっては
地域社会や家族といった狭い分類の中に身を置いて、それこそ自分であると認識する。他の集団に属している個体は、
警戒しなければならない別種の存在なのだ。もちろんこれは、理性による判断ではなく、生物学的な習性だ。
ヒトという動物の脳が、生まれながらにして異質な存在を見分け、警戒するようになっているのさ。そして私には、
これこそが人間の残虐性を物語る証左に思える。
”我々には平和を希求する理性も備わっているのでは?”となおも食い下がるルーベンスに対して、
『隣人と仲良くするよりも、世界平和を叫ぶ方が楽なのさ』と切り捨てる。そしてさらに、
戦争というのは形を変えた共食いなんだ。そして人間は、知性を用いて共食いの本能を隠蔽しようとする。
政治、宗教、イデオロギー、愛国心といった屁理屈をこねまわしてな。(中略)善行というものは、ヒトとしての
本性に背く行為だからこそ美徳とされるのだ。それが生物学的に当たり前の行動なら賞賛されることもない。
ポリネシアで現代も石器時代と変わらない生活を送っている部族に比べて、私達の方が上等であるなどと
どうして胸を張って言えようか。
自然を破壊し、沢山の生物を絶滅に追いやって悪びれないヒトは、チンパンジー以下の存在だ。
人間こそが一番の害獣である、という思いは、私自身拭いようがないのである。
最後の最後で、登場人物達が示した人間の善性は、作家が人間に託した一縷の望みだ。
私も、人間の叡智を信じたいと思う。
特に、謎が謎を呼び、危機また危機の連続で息もつかせぬ展開の下巻は、読むのを止められず、
結局夜中の一時半までかかってほぼ1日で読破してしまった。おかげで今日はひどい寝不足である。
これほど物語に入り込んで、眠るのを忘れるほど夢中になって読んだのは久しぶりだ。
過去を振り返っても、大沢在昌『新宿鮫~毒猿』、桐野夏生『Out』、コーンウェルの『検視官』シリーズくらいである。
日本、アメリカ、アフリカ大陸。それぞれに異なる主人公が登場し、目まぐるしい場面展開で物語は同時進行する。
彼らは、”人智を超えた存在”が描いた筋書に沿って、人類の存亡に関わる遠大な問題に巻き込まれてゆく。
人間の善性、そして時に目を背けたくなる醜さを晒しながら、己の使命を果たすべく、最終目標に向かって
突き進んでいく。それは数多の犠牲を伴うあまりにも過酷な道のりであった・・・。
ミステリーを軸に、アクションあり、科学ありと実に盛りだくさんであるが、その全てにおいて実に緻密に描写されている。
『13階段』でも、刑務所内部の様子や検察制度、死刑にまつわるあれこれを、臨場感溢れる筆致で詳細に
書き切っていた高野和彦氏。今作でも相当な考証を重ねたのがうかがえる内容だったけれど、巻末の膨大な
参考文献の数に、この作家のリアリティへの飽くなき執念を見た。
ホモ・サピエンスとは”賢い人間”という意味だそうだ。
しかし、誕生から42万年経ってなお、いまだに同じ生物種同士の争いが絶えない自称”賢い人間”である私達。
若き天才ルーベンスと老練の碩学、ハイズマンとの問答に、作家の思いが集約されているのではないだろうか。
・・・
人間は、自分も異人種も同じ生物種であると認識することができない。肌の色や国籍、宗教、場合によっては
地域社会や家族といった狭い分類の中に身を置いて、それこそ自分であると認識する。他の集団に属している個体は、
警戒しなければならない別種の存在なのだ。もちろんこれは、理性による判断ではなく、生物学的な習性だ。
ヒトという動物の脳が、生まれながらにして異質な存在を見分け、警戒するようになっているのさ。そして私には、
これこそが人間の残虐性を物語る証左に思える。
”我々には平和を希求する理性も備わっているのでは?”となおも食い下がるルーベンスに対して、
『隣人と仲良くするよりも、世界平和を叫ぶ方が楽なのさ』と切り捨てる。そしてさらに、
戦争というのは形を変えた共食いなんだ。そして人間は、知性を用いて共食いの本能を隠蔽しようとする。
政治、宗教、イデオロギー、愛国心といった屁理屈をこねまわしてな。(中略)善行というものは、ヒトとしての
本性に背く行為だからこそ美徳とされるのだ。それが生物学的に当たり前の行動なら賞賛されることもない。
ポリネシアで現代も石器時代と変わらない生活を送っている部族に比べて、私達の方が上等であるなどと
どうして胸を張って言えようか。
自然を破壊し、沢山の生物を絶滅に追いやって悪びれないヒトは、チンパンジー以下の存在だ。
人間こそが一番の害獣である、という思いは、私自身拭いようがないのである。
最後の最後で、登場人物達が示した人間の善性は、作家が人間に託した一縷の望みだ。
私も、人間の叡智を信じたいと思う。